歩く会100回の感想
なだ いなだ
「なださん、あるく会は、まだ続いていますか」そう聞かれることがある。
「ええ、ぼくが引退したあとも、ちゃんと続いてますよ」と答えながら、《北鎌倉の景観を後世に伝える基金》の歩く会も、もう百回を突破したか、と驚いている。ぼくは、理事長を辞任してからあと、参加していないが、それでもずっと続いていることを誇りに思っている。
カラスの勝手でしょうみたいに、ぼくが勝手に誇りに思っているのだが、一緒に始めた仲間のものたち全員も、同じように誇りに思っているのではないだろうか。
ぼくは、みなが、台の緑地を愛してしまったのだと思う。《何十回も歩けば、歩いているうちに、この自然を守ろうという気持ちもわいてくる》そういってやり始めたことだが、みな、ほんとうに愛してしまったのだな、と思う。
同じ場所を、何十回も歩いた経験はあまりないだろう。それをやった台の緑地は、気がついたら、もう人生の一部になってしまっているはずだ。
ぼくもそうだ。ジャーナリストたちを案内したことがあったが、いつの間にか、自分の説明が、自分の財産というか、自分の一部を自慢しているような口調になっているのに気付いて苦笑したこともある。
ぼくは体力的にちょっと自信がなくなって、参加しなくなったが、それでも、あの谷間に下りて、毎回、どこに鎌倉は行ってしまったのだろう、と思うくらい深い静寂を感じる一瞬を思い出す。案内した人から
「へえ、鎌倉にこんなところがあったんだ」という嘆声を聞いたときの、自分の誇らしげな気分も、思い出すたびに戻ってくる。
そして、これが、この保全運動をやっている余得なのだと思う。所有していないのに、勝手に、この自然が自分のもののように思えてくるなんて、やっぱり得だ。保全運動をしている人間の味わうことのできる贅沢だと思う。
エベレストの登山家マロリーが、《いくら高い山に登っても、結局は降りてきてしまうのでしょう》といわれたとき、《いや人間は、山を一メートル登るとき、こころの中で、なにかを一メートル登っている。山は降りなければならないが、こころの中の一メートルは降りることはない》と答えた。この台峯の緑を保全する運動で、ぼくはその言葉を思い出す。台峯の緑を守ることで、ぼくたちも自分のこころの中の緑を守っているのだ。そのこころの中の緑は、ぼくたちが老いて、台の峰や谷を歩けなくなっても、いつまでも残っていて、消えることはない。
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